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■みどり 92

●安全担当者活動日誌
安全衛生管理を中心に品質・環境
建築技術の向上に努めています

お疲れ様です。 私は、2年ほど品質と環境を中心に、安全環境品質と建築技術の仕事をしてまいりましたが、昨年10月の大阪支店安全環境品質部の人員削減に伴い、安全と災防協事務局の仕事の荷重が増加してきたところで、現在の私の日常をご紹介いたします。

横山 祐介
東急建設椛蜊緕x店
建築部技術担当課長
兼安全環境品質部担当課長

10/13
本日は、東急建設全社の安全担当者会議と災防協事務局会議出席のため、本社出張です。災防協事務局の会議としては初めてで、正会員の見直しや、事故多発に関する対策の提案がありました。
 (全社の災防協事務局や安全担当の方も非常にご多忙なんやな・・・また、今後の災防協大阪支部のあり方は?・・・松本支部長の顔を思い浮かべながら・・・)
 本日は、災防協のご好意で、東京で宿泊させていただくことになっており、懇親会の後、以前横浜支店にいた頃の先輩方と渋谷の街へくりだしてしまいました。(明後日に実施される建築所長会議での資料がまだ出来てへんことは、忘れトラへんねんけど・・・・・・明日の建築エンジニアリング部での打合せが終わったら早よ帰らなあかんな・・・)

 


10/27
 本日午前中は、災防協本部との合同パトロールで西宮、午後は全国産業安全衛生大会が大阪で開催されるので、大阪城ホールの日程です。
 西宮の現場へは、災防協本部からの方々もラッシュ時の阪急電車に座って乗っていただきました。(首都圏のような混雑ではありません)
 待っていたのは、かつて私も仕えたことのある所長の愛すべき毒舌と、所長によっておだてられて(押さえつけられて?)活発化している職長会のみなさまの整列で、スッキリ、スマート、スムーズの現場です。ただ、若い主任には現場であれこれ注文してしまいました。この現場は、着工時期に外壁遮音に関するVE案を検討したこともあり、身近かに感じている現場です。
 大阪支部長や副支部長も出席し、災防協の活動のPRや職長会活動など活発な意見が交換されました。(いろいろ考えると、ますます仕事が複雑化してくるな・・・)





 午後は、大阪で開催される全国産業安全衛生大会の開会のセレモニー等への出席のため、大阪城ホールへ行きました。大阪支店からは、災防協の方々を含めて3日間で約20名出席いたしました。
支店に帰ってからは、役員会・安全巡視委員会のご案内と、災防協大阪支部経営者セミナーのご案内を併せて作成・送付し、また、月末の「支店長メッセージ(安全大会用)」送付に関する打合せを行いました。

 11/5
 本日午前中は、再来週の月曜日に実施される大阪支店の安全衛生委員会の資料作りです。上期の実績について、資料や数字を見ると、改めていろいろ考えさせられました。
(中には改竄をしたい衝動に駆られるものも・・・これはしてはならないことですね。問題提起と提案に徹しなければ・・・)
 そうこうする内に昼前になり、午後1時半に神戸に不動産会社の方と竣工物件での入居者の方からの騒音に関する相談を受けに行く準備をしなければならなくなりました。提出する提案書の確認と、本日必要か分かりませんが騒音計の準備をして出かけました。(これは、建築部の技術担当者としての仕事ですが。音に関する入居者の方の感覚はまちまちで、あれこれ考えながら行きましたが、今回の打合せでは、私どもの説明を紳士的に理解してくださり、ほっとして会社へ帰りました)
 帰社後、夕方からの災防協青年部会の役員会に出席いたしました。次回の定期部会の若手所長との交流会で、テーマは「次世代の元請と専門工事業の関係の構築について」と決定し、事前アンケートも実施することとなりました。(青年部会活動にどのように意見を出すのか、まだ飲み込めていない事務局で申し訳ありません)

 最後に
  (ああ・・・品質や環境のMSに関する仕事を全然紹介できませんでした。本社の安全環境品質部の方へ、どうも申し訳ありませんでした)
  災防協役員の方々、安全巡視委員の方々、青年部会の方々から、今までなかった勉強をさせていただいております。
 今後とも安全衛生管理を中心に、品質・環境それと建築技術の向上に努めてまいりますのでよろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。
(記:12/15 四万十川作業所近くのホテルにて)
●協力会社訪問
潟}ツモト工業所(首都圏・鉄道支部)

専門工事業としての技術力と人材で
お客様が本当に満足する品物を提供していく

代表取締役 松本 洋幸
本社所在地 埼玉県戸田市上戸田4-10-1
業 務 内 容 建築リフォーム(改築・改修・修繕)工事、建築吹付塗装工事、
        建築防水工事、防露断熱(硬質発砲ウレタン吹付)工事、
        各種塗床工事、耐火被覆工事、防犯フィルム施工工事 等


松本洋幸社長
●社長はメーカーに勤めていたということをお伺いしたことがありますが、マツモト工業所に入られたのはいつなのでしょうか。
松本社長 私は学生時代に外人相手の添乗員のアルバイトをしていたこともあってか、建材会社に入社と同時に駐在員を命じられ、シンガポールで約4年間勤務しました。私としてはそのまま仕事を続けるつもりでいましたが、旅行に来たというマツモト工業所の社員が会社の様子などを話しに事務所に顔を見せました。これは親父(先代社長の松本荘生会長)の意向で様子を見に来たのだな、口では言わないけれど、そろそろ戻ってきてはどうかというシグナルなのだな思い、そのままにもしておけず、帰ってきたのが昭和61年で28歳のときです。  

●帰ってきて何か戸惑いみたいなのはありましたか。
松本社長
 赤道直下のところで4年間生活をしていましたから、まず体が慣れるまでが大変でした。仕事は営業回りもしましたが、現場代理人として現場に入って管理をしながら、材料を運んだり、片付けをしたりしました。先代社長からはいろんな方を紹介してもらいましたから、お得意先に顔を出すと「あ、松本か」と名前と顔を覚えていていただき、ありがたかったですね。親父の威光というのか、親は超えられないなと思いました。  

●先代から社長を引き継いだのはいつでしょうか。
松本社長
 37歳のときですから、入ってから10年目ですね。先代は65歳で辞めると話していたのですが、本当に辞めてしまいました、代表権も何もいらないと言って。私としては突然のことで、どこか具合が悪いのではと心配が先にきて、びっくりしたという状態でした。現場代理人としてずいぶん現場の場数も踏み、職人さんたちを直接把握してきましたが、社長になるというのは例えて言えば親になるわけですから、当然皆の見る目も違ってくるし、何よりも全責任を負いますから、これは大変なことになったと思いました。  
 実際、仕事を安定的にいただき、皆の生活を安定させていくことが私の肩にかかっていますから、営業面にも重さが違いますし、計数管理、資金繰り、銀行との付合いなどに時間と頭を使わなければならない。その一方で若い人に仕事を教え、育てていかなければならないわけですから、初めはきつかったですね。

マツモト工業所が担当した
南大井ビル外壁工事
●マツモト工業所の強みは、どういったことでしょうか。経営面で力点を置かれている点についてもお話しください。
松本社長
 人材と技術力です。そして、私たちの仕事は人間商売ですから、まず誠意をもって、いい仕事をすることです。私もお得意様から目をかけていただき、ずいぶん育ててもらいましたから、若い人たちにも「皆の仕事ぶりはお得意様によく見られているんだよ、とにかく真面目に正直に、誠実にいい仕事をすれば、また必ず声がかかるんだよ、皆さんに育ててもらっているんだよ」と話しています。若い人が一人前になっていく姿を見るのは本当にいいものです。育てていただいているのだなと感じます。  
 経営において一番大切にしているのは「信用第一」ということです。私たちの仕事の結果は皆さんに見られるわけで手が抜けない。現在は工期が短くなっていますし、我々の仕事は最後の最後という状態の中で、たとえこれでいいと言われても、我々が見てだめなものはだめだという姿勢で取り組んでいかなければ思います。それだけは譲れない気持ちでいます。お客様の大切な財産を扱わせていただいているのですから。

潟^ムラ(住宅支部)
責任感と一生懸命を気持ちにこめて
安全第一に請けた仕事の工期は必ず守る


代表取締役 田村 教
本社所在地 埼玉県新座市片山1-21-20
事 業 内 容 左官工事

田村 教社長
●会社の略歴書を拝見しますと、昭和39年に左官工事業自営とありますが、20歳そこそこで独立されたということになりますね。  
田村社長
 福島県田村郡三春町という滝桜で知られる田舎を離れ、昭和34年に上京し、東京渋谷で左官業の丁稚奉公に入り、昔のことですので、大きな会社でしたが私が入った頃は車などなく、リヤカーでしたね。道具を運ぶのは1年くらい過ぎてから車になりましたけど。東急建設の仕事もRCの方をやっていましたので、都内はもちろん、伊豆方面にも大分行きました。私の仕事は主に木造の建物で、赤坂とか下町の割烹料理店などの仕事が多く、今はなくなりましたが土壁でしたので、大変勉強になったと思います。そんなこんなで頑張っておりましたが、自分でやりたいと思い3年勤めて18歳で独立し、数人の方に協力してもらい、20歳の頃は報知新聞社、読売新聞社などなど思い出に残る仕事をこなしてきました。  
 その後、東京オリンピックなどもありましたので、お蔭様で大変忙しくしておりましたが、良いことばかりではありませんでした。と言うのは、集金は手形が結構ありましたので、手形の事故が何度かありました。それでも誰一人様にも迷惑をかけることなくやってまいりましたね。

●若くして皆をまとめていくことができたのは、仕事に対する姿勢が人よりも抜きん出ていたのだと思いますが、その頃のことで印象に残っているのはどのようなことでしょうか。
田村社長
 ある現場で現場監督さんが私が食べる弁当を見て、「君のところに仕事を出しても安心だ」と言った言葉を今でも忘れません。何を言おうとしているのかと思いましたが、妻の助けを得て二人、二人三脚でちゃんとやっていけるなと見たのでしょう。人間っていろんな面から見られているのですね。

●昭和50年に有限会社田村左官工業所設立、昭和60年に組織変更をして株式会社タムラとなり、現在に至っているわけですが、これまで山もあり谷もあったと思いますが、いかがですか。
田村社長
 オイルショックのときRCと木造も両方やっていましたので、材料の仕入れに大変困りましたね。福島の方まで足を運んだ思い出があります。今思えばそれも良き思い出ですね。それから不渡りを被ったときが大変でしたね。生きていくことができるのかと思い、最悪のことも何度も考えました。でも、私と一緒に働いてくれる人たちに不安を与えることができないと思いながら乗り越えましたが、長男を亡くし、最愛の妻を亡くし、まぁ谷ばかりのようですが、楽しいことも一杯あります。今の家族に、また素晴らしい職人さんたちに支えられて頑張っております。

●経営で大切にされていることは何でしょうか。
田村社長
 「安全第一」と「請けた仕事の工期は必ず守る」と「何事にも責任を持つ」ということです。それを社是にしています。トップとしての責任は、働いている者とその家族が安心して仕事ができ、安心して生活ができるようにすることだと考えています。その前提が安全第一ということで、タムラのルールを徹底し、もしルールから外れると厳しい態度で臨みます。私が安全パトロールのときなどで、「行ってらっしゃいと言われて家を出た姿で帰れ、それが自分と家族と皆に対する責任だ」と言っています。とにかく責任感をもって一生懸命にやることが、すべてに通じていると思います。

平成17年度安全祈願

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